曹源寺の歴史

曹源寺は曹洞宗の寺院です。曹洞宗には、大本山が二つあります。一つは道元禅師が開かれた福井県にある大本山永平寺、もう一つは瑩山禅師が開かれた横浜市にある大本山總持寺です。

室町時代

1433年頃 草源寺の開闢(かいびゃく) − 寺の始まり

この寺の創建は、度重なる火災によって古記録はことごとく焼失したため明らかではありませんが、寺伝によると以下のとおりです。
森上村に、草茅の庵で修行に精進していた大龍音吉禅師がいました。ある夜知らない僧侶が夢枕に立ち、『葛のつるを伝って行き、その根元に至ったならばそこに一宇(ひと棟の家)を建立するがよい、必ず栄えるであろう』と言いました。翌朝その声に導かれて、葛のつるを伝って山谷を歩くこと北に二里余、北荷頃の地に至ってそこに草葺屋根の小さな寺を造り、草源寺と称しました。これが曹源寺の前身であると伝えられています。
大龍音吉禅師はこの地に約30年間庵居し、御仏に仕えて89歳の天壽を全うしました。時に寛正4年(1463年)2月初日示寂と伝えられていることから、草源寺は永享5年(1433年)頃に創建されたものでしょう。

1465年頃 曹源寺の開山(かいさん) − 曹源寺の始まり

大龍音吉禅師は後席に長岡市乙吉の龍穏院を開いた公器賢章禅師を招き、草源寺を整備して萬年山曹源寺と改め開山となりました。

1499 開基 − 寺創始で経済的支援を受けること

文明年間(1469〜1486年)に至って栃尾城主北畠山城守の帰依するところとなりました。山城守は南は矢津川から北は本津川、西は松原山裾、東は大道境までの広大な土地を寺領として寄進しました。これによって明応8年(1499年)、山城守は曹源寺開基となり、永正11年(1514年)3月11日没します。当寺の裏山大榎の下に埋葬されました。

安土桃山時代

安土桃山時代〜江戸時代初期 菩提所(尊牌安置)

安土桃山時代、天正年間(1573〜1592年)には栃尾城主神子田長門守の菩提所となり、長門守は山林寄進の功により中興開基となりました。この頃の曹源寺の山門に制札、下馬礼等があり、その繁栄を物語っています。
更に江戸時代にかけて、慶長年中(1596〜1615年)の栃尾城主松平筑後守の菩提所として、門前に制札、掟札が整備され、林号「吉祥林」を賜り、大禅刹としての偉容を伝え、代々栃尾城主菩提所として続きました。
栃尾城主神子田長門守 天正19年(1591年)11月29日没
栃尾城主松平筑後守 元和2年(1616年)3月15日没

  • ・制札
    禁令、法規を記した札。寺が軍隊の乱暴から免れるために武将に請うて下付されたもの。
  • ・下馬札
    寺の境内に入る前に敬意を表し、乗っている馬から降りることを記した札。
  • ・掟札
    民たちの悪事を戒めるための掟(おきて)を記した札。

江戸時代

1680年前後 杉植林

九世針鋒本鐡禅師は衆生済度を農興に求め、積極的に野に出て地域民と共に田畑の開墾に努め、また数万本の杉の苗木を植林したと記録に残されています。

江戸時代中期 1700年前後

殿堂、閻魔堂、衆堂など建てられ、本尊を再造、その他、十六羅漢、四天王、達磨像、六地蔵、大鐘など造られました。

江戸時代末期 火災・復興

天保11年(1840年)に火災発生(祝融の災)、一堂伽藍ことごとく焼失しました。寺は、十九世端道禅師により同14年(1843年)に再建されましたが、この時の本堂上具は九世本鐡禅師が160年ほど前に植えた杉を利用したものです。焼失した仏像などもほとんど改めて造られていきました。1855年、大地蔵(延命地蔵菩薩)を造るにあたっては、端道禅師は、千体もの木の小菩薩を彫らせ、檀家に配って寄付を受けてのことでした。

現在

現在 人々が集う開かれた寺をめざして

2003年、寺倉昭雄が曹洞宗大本山總持寺(神奈川県)を送行し、曹源寺に二十九世として晋山。以来檀家の協力も受けながら、寺の修復、整備を重ね、現在に至っています。

曹源寺代々の住職の活躍は多大で、初代開山禅師が栃堀の高徳寺を開創し、三世が中村の東昌寺、四世が見附の智徳寺、五世が栃窪の源昌寺、六世が入広瀬の龍沢寺、七世が加津保の龍昌庵、八世が名木野の福昌寺、九世が杉沢の杉沢寺と八ヶ寺を開いています。

なお、創建時の本尊は十一面観音菩薩像で、その次は元禄10年(1697年)には泰澄大師作の聖観世音菩薩像(丈は180cm余)でしたが、1841年に焼失し、現在は天保14年(1843年)に祀られた35cmほどの聖観世音菩薩です。

小地蔵菩薩像
高さ25cm前後
延命地蔵菩薩
高さ3.6m
本尊 聖観世音菩薩
高さ35cm